躰道の歴史 空手より生み出されし、躰道

この後、祝嶺先生は昭和19年に海軍に入隊。特攻隊の菊水隊に配属された。菊水隊とは、特殊潜航艇(蛟竜)で敵艦に攻撃を与える使命を受けていた部隊である。

だが、この潜航艇には方向を取る舵はあったが、基本的には直線的な動きしかとれない弱点があった。だから、敵の攻撃が早いか、もしくは攻撃距離が長ければ、戦わずして負けを喫することになる。

このことを現在の空手競技に置き換えてみるとよく分かる。

現在の空手競技では、往々にして「技」以上に身長や体格といったものの「差」によって勝敗が左右されることがある。この軍隊での生活を通して〃小さく・非力なもの〃がいかにして強大なものに対して、勝つためにはどの様にしたらよいか、ということを考えるきっかけとなった。

そして戦火を潜り抜け、幸運にも生き延びることができた祝嶺先生は「小よく大を制す」-技が力を超える新しい武道創作に励むこととなった。ある時は山中に篭り、またある時は無人島で技の完成を急ぎ、昭和24年に術技の一部を公開。その後、昭和28年には、この新武道は空手の名称『玄制流空手』として公表された。

この玄制流空手は、岸本老師の技の考え方を中心としたものだが、工ビ蹴りや斜状蹴りといった、独特の技を持っており、異彩を放つものであった。

しかしどんな空手であっても、「試合」というグランドに置かれ、同一の条件で行えば、身長や体格といったものの「差」に直面せざるを得ない。

全空連の発足・発展に邁進し、自ら副会長を務めていた祝嶺先生は、昭和38年に明治大学に他流派の代表を招き、会議を開催。全空連の試合ルール・在り方に疑問を感じた彼は袂を分かち、新たに武道を模索し始めた。

そして完成したのが、玄制流空手をもう一歩し進め、今度は空手という名称にとらわれない、従来の空手もしくは武道というものとは全く違った角度から生まれた新しい武道=躰道を生み出すに至った。