ベテランの躰道関係者であれば歌手の尾崎豊さんが躰道をしていたということはある程度知られています。
最近の若い世代はあまり知らないかもしれません。
この記事を書くか迷いましたが、記録として残しておこうと思い書いてみました。
ここからはあえてさん付けでなく表記します。ご了承ください。
ネット上では幼少期のことがある程度散見されますが、実際に尾崎豊が躰道を習ったのは少年時代と大人の時期と2回に分かれます。
彼が所属していた道場は東京城北地区躰道協会の練馬道場。
師匠は河内重典先生(故人)
当サイトのつくば道場を立ち上げた先生が尾崎豊の師匠でした。
練馬道場は練馬区出身の河内重典先生が16歳で立ち上げた道場。東京都練馬区小竹町の八雲神社で始まり、タコ公園、練馬区立総合体育館へと移っていきます。
かつての練馬道場
尾崎豊が写っているかは不明
尾崎豊が躰道を習っていたのはタコ公園とネット上の記述がありますが、河内夫人曰くその頃はすでに総合体育館(谷原)でも稽古をしてた頃ではないか。両方で行っていた可能性もあるとのこと。
豊少年の父が躰道の前身である玄制流空手を習っていた影響からお兄さんとともに躰道を習っていたとのことです。
躰道創始者の祝嶺正献先生は著書「躰道概論」で自衛隊立川駐屯地や朝霞駐屯地で玄制流空手を指導したとの記述があります。豊少年のお父さんが自衛官だったというので間違いないと思います。
以前、河内重典先生に幼少期の尾崎豊のことを聞いたところ、小さい頃のことはお兄さんのほうが印象にあるようで特別な印象はお持ちでなかったようです。 ただ、あいつは大人になってから道場に戻ってきたんだよ。そう言っていました。
◆大人になった尾崎豊①◆
尾崎豊が再び練馬道場にやってきたのはすでに歌手デビューした後。
当時、若者のカリスマ的存在になっていましたが、師匠である河内重典先生はそこまで有名だったことを知らなかったそうです。
尾崎豊の没後、葬儀で着席しその葬儀の大きさ、参列者の数を見てその影響度に驚いたとのことです。
道場にやってきた時期は逮捕された後、当時彼がいろいろと悩んでいたと聞きます。
幼少期を過ごした練馬道場に、師である河内重典先生に何を求めてやって来たのか。両者とも故人であるため今となっては正確なことは分かりません。
歌手になっていようと会社員であろうと道場内での河内先生には関係ありません。
特に厳しい先生でしたのでこんなエピソードがあります。
当時の尾崎豊は爪が長かったそうです。それを見た河内先生は
「爪を切ってこい。そんな爪では躰道は教えられない。(安全性のため)」
それを聞いた尾崎豊は
「はい。わかりました。」と言い、爪を切るために道場を出ようとしたところ、別の道場生が止めに入ったそうです。
「先生、彼にとって長い爪はギターを弾くために必要であるものです。」と言い爪を切らせることを断念していただいたそうです。
河内先生は厳しい反面、優しい先生でしたので爪を切らないことを了承したそうです。
後年、この件について河内先生はこのようなことを言っていたそうです。
「あの時、俺が爪を切らせていれば豊は死ななかったのかもしれない。」
爪を切ったからと言って歌手をやめていたとは限りませんし、どのような結果になったかはわかりません。ただ、そう言っていたことを河内先生の奥様から聞きました。
◆大人になった尾崎豊②◆
他にはこんなエピソードがあります。
尾崎豊から申し出た話。
「河内先生、躰道の歌を作りましょうか?」
河内「なんでお前が作るんだよ。」と、一蹴したそうです。
河内夫人曰く、「この件に関しては作ってもらうべきだった。失敗だったなぁ。」
このエピソードからもわかるように河内先生は本当に若者のカリスマになっていたのを知らず、幼少期と同じように一人の道場生として接していたようです。
◆没後◆
東京城北地区大会において名誉5段を授与。
◆歌詞への影響◆
通常、体と表記するべきところをわざわざ躰と表記しています。
代表曲
・I love you
・OH MY LITTLE GIRL
・15の夜
・愛の消えた街 など
躰道という名称について雑誌「月刊 空手道」で躰道創始者の祝嶺正献先生はこのように述べています。
『身』は人間自身の内的要素であるところの精神的、意志的な行為、『体』は人間自身の外的な要素であるところの肉体的、行動的なものを表しています。このふたつの結合によって生まれた『躰』の語意は精神活動と身体活動のあらゆる可能性を内包しています。この言葉こそがまさに躰道という武道を表しているのです。
尾崎豊さんがどのような意図でこの躰という漢字を使用していたのか。
歌詞の中でいろいろと考えてみるのも良いかもしれません。
以上、尾崎豊さんと躰道について知っていることを書き連ねてみました。